ワイン好きな象と猫

フランス生活の忘備録

アサリのアヒージョ風

順番が変わるがアルルのレビューの話の続きを書きたいと思う。

 

今回通訳としてレビューのお手伝いをすることになったPさんとF君親子は普段鹿児島で写真館を営んでいる。今回レビューを受ける作品はPさんが撮った写真をF君が編集したものだ。昔新聞社のカメラマンだったという口下手な職人気質のPさんと、そんなPさんに歯切れ良い言葉でダメだしする芸術家肌のF君は、普段私たちが親子制作と聞くと子が父の弟子であるような関係を想像してしまうが、そんなイメージとは異なるお互いを補完しあうような素敵な関係だと思った。

 

今回私が通訳する事になったのは偶然だった。もともとフランス在住6年という日本人の方に通訳を頼む予定だったが、その人が都合が悪く来ることが出来なくなり、急遽私が代打することになったのだ。ただ私の英語力はそんな流暢に日本語を訳せるというレベルではないため、本当に私でよいのかという思いがあった。大学では英語で発表することはある。しかしそれは事前に原稿を作成し、発表練習を何度も繰り返し頭に英文を刷り込んでからいつもやっていたので、私が本当にレビューの通訳が出来るのか心配だった。しかもレビューは時間が20分と限られている。私が通訳に手間取ればそれだけPさんとF君の伝える時間、レビュアーの方が話す時間が減ることになるのだ。また欲深い私は、出来るだけ二人の話のニュアンスを伝えたかった。緊張はなかったが、力んではいた。

 

そして、私は事前に言い訳を作っていた。「私はレビュー中に伝えたい内容を考えて話すまで頭が回らないと思います。二人が話したことをそのまま伝えることに注力します」と今思えばもっと出来たのではないかと反省している。

 

最初のレビューはアメリカ人の綺麗な人だった。とても愛嬌のある優しそうな人だった。最初はおとうさんのPさんが中心になって説明した。訳していて思ったが、説明が単調であまり面白くないのではないか、メインで伝えたいことは別の事ではなかったかと頭によぎったが訳に集中する。おそらく同じことを考えていたであろう同席していた友人の写真家Sさんが私に「もっと○○の話をした方がいい」(事前の打ち合わせで○○の話をしようと決めていた)と私に伝えてきた。

 

私はというと「私に言わず、説明を話すPさんに言ってください」と言ってしまったのだ。今思うとSさんにそんな返事を返すのなら私がすぐ横にいるPさんに言えば早いのだが、通訳で一杯いっぱいだったのだ。人間そういうときこそ本性が出るものである。今思い出してもあんな反応をしてしまって恥ずかしい(笑)

 

訳していて思うのだが、相手の話を聞いてるときはその言葉を脳内で訳すことは出来るのだが、日本語に訳して話す段になると先ほど訳していた内容の枝葉末節の部分は頭から抜け落ち「つまりこういうこと」的な自分自身が相手の話を理解するために頭に残した主要な部分しかPさんに伝えることしか出来なかった。レビュワーの方の言葉をそのまま正確に訳出来れば良かったのだが、それが全くできなかった。

 

そのあとPさんに代わりF君が説明をした。気が付くと席を立ちあがって説明していた。レビュー時間の20分はアッという間に過ぎていた。

 

成果としてはレビュワーの方からポジティブな感想とアドバイスをいただき、今後継続して作品をメールで送らせてもらう事を承諾してもらえた。表面的にはうまく行ったようだが、すれば全て社交辞令にも思えた。レビューが初めての私はそこで判断は出来なかったが、そのあとのカフェでの反省会のみんなの反応を見て、やはり芳しい結果ではなかったことを察した。

 

レビューで話す時に必要なことは研究の口頭発表と同じである。伝えたいことを簡潔に論理の一貫性をもって話すこと、今回のテーマと関係ないことは話さない事(それが個人的に思い入れのあるものであったとしても)などである。しかし私自身インドネシアの湿地で研究しているので、屋久島の山奥に言って写真を撮ってきたというPさんが関係ない話をしてしまうことに私はとても共感したのだった。

 

翌日もレビューを受けたが結果はなかなか芳しくなかった。レビュワーの方の話の区切りが長く、ペースが早いので昨日以上に要約的な通訳しか出来なくなっていた。力不足を感じた。二日目のレビュワーの方とはPさんが偶然にも電車で会ったことがあるらしくその時の作品を見せ説明を簡単にしたらしい。しかし今回はそれが裏目に出たようだった。前回と重複する説明に途中飽きているように見えたのだった。